トリスのメモ帳(48) 夢を、つかまえに行くよ  Aqoursの10人目の仲間として

僕らにとってのAqoursはかけがえのない存在。

なら、Aqoursにとっての僕らはなんなのだろう。

 

『No.10』を初めて聞いた時。

Aqoursからの手紙のように感じてすごく嬉しかったけれど、それと同時にこれまでの楽曲にない違和感に気付いた。

 

自分が10を叫ぶことの意味について深く考えたことは無かった。彼女たち9人を追いかけていく上で当然のことだと思っていたからだ。

千歌が「1」と言ったら、曜が「2」と言うように、僕が「10」と言うこともひとつの流れとして自然に受け入れられていた。

 

僕は『みんなで叶える物語』に参加した。

彼女たちを照らすペンライトになった。光の海になった。

 

10人目は君だよ 君も仲間だよ

 

なのに、そこには「僕」が居た。

 

 

 

 

「“ラブライブ!”する」という動詞を個人的に使うことがある。

特にちゃんとした定義をして言ってるわけではないのだが、あえて言うなら『ラブライブ!でしか味わえない青春を体感する』とか『いかにもラブライブ!っぽい感動を受ける』みたいな意味で使うことが多い。

それ以外を含むこともあるけれど、フィーリングで使えば多分それが正しい。

 

過去に一度、ライブ中にAqoursに「今日は私たちに会いに来てくれてありがとう!」と言われて疑問に感じたことがある。

 

僕は何のためにラブライブ!のライブに来ているのか?

 

いや、Aqoursと会ってAqoursと楽しい時間を過ごすという意味では「Aqoursに会いに来た」という答えが正しいのだとは思う。

でも例えばAqoursのライブを含まないイベントに参加した時と、ライブイベントに参加した時では自分の中の覚悟というか感情が違うことは感じていた。「Aqoursに会いに来た」という答えはこの前者に使う方がしっくりくる。

 

僕はこれに対して「“ラブライブ!”をするため」だと自分の中で答えを出した。

Aqoursと会うためだけじゃなく、“ラブライブ!”をするためにAqoursのライブに来て、そこに“ラブライブ!”を見つけて帰る。だからきっと僕がライブ会場に足を運ぶ理由はμ’sの頃から変わっていない。

 

 

 *

 

 

例えば、『君のこころは輝いてるかい?』を聴いて、そのメッセージを僕自身が受け止めた時。

けれど、そこに「この曲はAqoursのメンバー同士の歌かもしれない」「他のスクールアイドルに向けた曲かもしれない」「浦女生徒の目線で聴くことも出来る」という考えがよぎる。

 

Aqoursの曲の歌詞が僕にも響いたとして、Aqoursは僕のためだけにその曲を歌ったわけじゃない。そう思う部分はどこかにあった。そうした色んな目線で解釈出来る歌詞はラブライブ!の大きな魅力のひとつだから。

その上で、そこに見つけた輝きが自分の価値観を形成していった。

 

けれど『No.10』は違うと思う。

Aqoursのこの曲は、僕らのために歌われている。

 

闇の中でペンライトを振ってAqoursのステージを照らしていた僕らの手を、Aqoursが引いた。

僕らは感謝の言葉を受け取るため、10人目の仲間としてそれぞれがステージにあがった。

 

自分自身の夢というステージの上に。

 

遠くない未来

やがては独りで立つことになるステージの上に。

 

 

 

 

2014年4月6日深夜、日本中で悲鳴があがった。

そして、そのひとつは僕の口から出たものだった。

 

その日はラブライブ! 2nd seasonの放送開始日だった。 

ラブライブ!もう一度開催されるという知らせに興奮するμ’sたち、しかし穂乃果は出なくてもいいと言う。

その中で雪穂がラブライブ!決勝の開催時期が3月であることを告げた。

 

でも、私たちが入学するってことは……

……もう分かるでしょ?

 

どんなお花畑な頭で1期を見ていたのかと怒られても仕方ないのだけれど、僕はμ’sと卒業が結びつくことを全く考えていなかった。今でこそ、スクールアイドルはその限定的な期間が強い意味を持つと分かっていても、当時は受け止めきれなかった。

 

実際、時空によってはいわゆるサザエさん時空の場合もあった。

ナンバリングシングルを見た時に『Snow halation』『夏色えがおで1,2,Jump! 』『もぎゅっと“love”で接近中! 』と来ている時点で作中の季節感はかなりヤバい。

 

そんなμ’sの物語がまた始まった喜びと、その終わりが示唆された悲しみに挟まれている時だった。

僕は初めて聴いた時から引っかかっていたある歌詞にぼんやりと答えを得た。

それはオープニングテーマ曲であるのに、サビの歌詞はもっと先を見ていた。

 

それぞれが好きなことで頑張れるなら

新しい場所がゴールだね

 

穂乃果たち9人はどんな場所に進んでいくのだろう?

僕はそう考えていた。

 

そこに10人目の自分自身は含んでいなかった。

 

 

 

 

『No.10』に対する感情は本当に人それぞれだろう。

はっきり言えば、この曲に対してどんな感情を持っていても、それは「ラブライブ!をどれだけ好きか」とはあまり関係がないと僕は思う。

その代わりこの曲をどう受け止めるかは、各個人が「ラブライブ!をどう好きか」「ラブライブ!に何を求めているのか」に関わっていると思う。

 

この曲と向き合う時、誰もが第三者どころかステージの下に立っては居られない。

その責任を負うことは真剣に向き合うほど簡単じゃなくなる。

 

 

僕は自分が10人目であると言って、自分がAqoursと同じ熱さでラブライブ!に想いをぶつけていると思ってきた。

けれど、自分自身が本当の意味でAqoursの仲間だとは考えていなかった。だから戸惑った。ラブライブ!を好きでいれば良いというだけの話なら簡単にとれる手が、ひどく遠く見えた。

 

Aqoursと僕の関係は歪だ。

 

僕らにとってAqoursはかけがえのない存在だ。

Aqoursにとっての僕らはかけがえのない存在だ……として。

 

それでもAqoursにとって僕個人はかけがえのない存在じゃない。

そう思っていた。

僕が居なくてもきっとステージの上は何も変わらないだろうから。

 

だけど僕はこの曲と手を、差しだしてくれたAqoursに感謝して、素直に受け取ろうと思う。これからは僕自身がAqoursの10人目の仲間になっていこうと。

 

少なくとも僕の中では。

僕が居なければ始まらないAqoursの10人目のステージの上で、これからは。

 

 

 

 

劇場版でAqoursはそれぞれの“これから”の夢と道を見つけて、歩き始めていくだろう。

 

僕らはどうだろう?

 

9人がそれぞれの夢を見つけた先で、もしファイナルなるものを迎えたとして。

その先で、10人目の僕だけが座り込んで泣き続けたとして。

この曲から受け取った想いは果たされるだろうか。

 

10人目はただAqoursを好きな人間じゃなく、自分自身がAqoursの仲間として未来へ歩いて行ける存在であるべきだと僕は思う。

 

ステージの下のファンとしてAqoursに“共感”してきた歌詞が、

仲間として手をとった僕に今度は“実感”として痛みをくれた。

 

だからもう行かなくちゃ

ひとりでも行かなくちゃ

思い出を口ずさんで

 

ひとり ひとり それぞれの道

やがて選ぶと知ってたのかい?

 

ミライ望む言葉から ミライ望む歌があふれだしたら

とめないでよ遠くへ

大好きなメロディーと旅にでるんだ

 

ずっとここに居たいね 好きだよみんな

でもね旅立ってくって分かってるんだよ

 

想いはひとつだよと

違う場所へ向かうとしても信じてる

 

消えないでってつぶやきながら

もっと先へ飛び出すんだ

 

Aqoursなのに、歌詞がどれも“MY”である理由も見えてきた気がした。

 

MY NEW WORLD

新しい場所 探す時が来たよ

次の輝きへと海を渡ろう

夢が見たい想いは いつでも僕たちを

つないでくれるから笑って行こう

 

 

だったら、僕はドームに何をしに来た?

 

「“ラブライブ!”をしにきた」……だけじゃ足りない。

船が往くなら、光る追い風になろう。

Aqoursに貰った夢を持って、ここまで来た。

 

これから自分の未来を照らす夢を、ここで僕自身がつかまえようと思う。 

追いかけてきた夢をつかまえて、追いかけていく夢をつかまえる。

 

そして「ありがとう」と言うために来た。

Aqoursに。友達に。一緒に居られる今この瞬間に。

 

今を精一杯全力で楽しんで、心から。

 

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あなたはドームに何をしに来た?